やったことないんですけどね。やっている人の話はよく聞きますし、カミサンもってるみたいですけど、僕は、やり方も知りません。それなのに何で書いてるかというと、昨日、北海道の熱烈な拓郎さんのファンの方の書き込みがあって、へえ、と思って書いてます。
その人のことを書こうかと思ったんですけど、それは反則になるのかなと思って辞めましたけど、はい(笑)。でもね、昔、深夜放送なんかであったでしょ、「匿名希望の○○さん」と名前を紹介してしまうやつ。非公開コメントの○○さん、とか書いたりしてね(笑)。
あ、遅ればせながら祝福&激励、ありがとうございました。誕生日のみならず、年齢までカミングアウトした甲斐がありました(笑)。なつかしいお名前があると嬉しくなりますね。ここももう6年目に入っているわけですから、その頃からお名前を拝見している方は古い友人みたいな気になります。
みたいな、かよ(笑)。でも、見なくなったお前も少なくありません。そういう一方通行が良いという感じもするわけです。サイトならではの距離感の面白さというんでしょう。出会っているんだけど出会ってない。向かい合ってはいるんだけどお互いを知らない。気が向いたら書き込んでみてください。
何の話だっけ。そうだ北海道在住、道南ですけどね。非公開コメントの○○さんの書き込みで、ヤフオクで「タイフーン」という雑誌の拓郎さんインタビューを買った、という書き込みだったんですよ。非公開のね。書いちゃいましたが(笑)。
そんなのが出てるんだ、という驚きと同時に結構嬉しかったわけです。「タイフーン」というのは、78年に出ていた雑誌ですね。出版元というのは飛行船出版という名もない会社。それもそのはず、その「タイフーン」を出すために作った会社でした。
資金元は、自動販売機で儲けたエロ本屋さん。自販機のビニ本ですよ。その会社の社長さん、当時35才でしたけど、お子さんが生まれて、その子に「お父さん、どんな本を出してるの」と聞かれた時に、今のままじゃ見せる本がない。何とか普通の出版社にしたい、と作った会社でありました。
良く知ってるでしょう。だって、その雑誌の編集長が私でありました。結局、6号で潰れてしまったんですけどね。創刊した時には「一年で二億の赤字は我慢する」とか言っておきながら、3号で5千万くらいの赤字が生まれた時に「この金でエロ本を作ったらビルが建った」とか言って休刊を決めた、という顛末がありました。
長いね(笑)。何か言いたいか。その雑誌を始めた時、僕の中で、これだけはやっておきたい、と思ったのが、拓郎さんと矢沢さんのインタビューだったんですよ。初めてインタビュアーとして拓郎さんと向き合ったのが、その時でした。
それまでは放送作家でしたから、番組のゲストに来ても、話すのはパーソナリテイで、僕は台本を書いて収録を見ているだけですよね。まあ、指をくわえて見ていたわけです。いつか自分でインタビューしたい、そう思っていて、それが実現したのが「タイフーン」でした。
場所も覚えてるな。今はなくなってしまっった赤坂のTBS会館の地下の和食屋さん。「吉田です」と彼が部屋に入って来たときの「これが吉田拓郎か」と、オーラに逃げ出したくなるくらいにびびったのを覚えてます。インタビュアーとしてはあそこから始まりました。
ま、処女インタビューというか、童貞インタビューというか。でも、持ってないんですよ。その雑誌。インタビューのコピーは、二十年くらい前に当時のレコード会社にあった雑誌記事ファイルから見つけてコピーしました。
というようなことを書きたくなった、ということですね。そういう意味ではヤフオクありがとうかな。かなり気負ったインタビューでしたけどねえ。音楽雑誌では聞かないような青臭いことを聞いてると思います。大切に保管してくださいね、非公開希望、北海道の○○さん(笑)。
というわけで、明日は超大物女性シンガーソングライターの原稿。今日は嫌いなテープ起こしでした。アラばっかり見えてしまって自分のインタビューを聞くのは好きじゃないんです。原稿は3時まで、って細かすぎだ(笑)。
9月22日の朝日新聞の夕刊にその記事が出るんですよ、と言えば誰だか分かりますよね(笑)。ということで、その女性の曲、というわけにも行かないか。拓郎さんか。あのインタビューの時のアルバムは「大いなる人」だったんじゃないかな。
その中から「大いなる」を。”大いなる人生、手助け、無用”という歌詞が格好いいな、俺もあんな風に生きたい、と思ってました。で、こんな年になってしまいました、とさ(笑)。今日は書きすぎました。じゃ、お休みなさい。