昨日、聞いたんですね。八木さんの死。洋楽の評論家としては一時代を築きました。5日に亡くなったそうで、かなり時間が経ってました。洋楽関係者の間では連絡が行ってたんでしょうけど、僕は、そういうおつきあいじゃなかったですからね。
1945年生まれ。一つ上です。胃がんだったとか。同業というのもありますけど、一つ上というのはやっぱり落ち込みますよ。次は俺かなあ、いつそうなってもおかしくないんだなあと漠然と思ったりするわけです。
彼は60年代の半ばからDJをやってましたからねえ。同世代の中では一番早くから評論家としての仕事をしていたんじゃないでしょうか。洋楽の評論家、ということで言えば、福田一郎さん、湯川れい子さんに次ぐ売れっ子だったでしょう。
「パック・イン・ミュージック」は、福田さんと彼が洋楽を広めてましたよね。僕は文化放送中心でしたから、その頃仕事したことはなくて、70年代半ばかな、東芝EMIの提供番組で一緒になりました。僕が構成して彼がしゃべってました。曲紹介のうまい人だなあという印象があります。
よく知ってましたよね。洋楽系の評論家の人たちは、情報源が勝負という面もありましたから、ビルボードやキャッシュボックスを細かくチェックしていたんでしょう。ソウル系とポップス系は強かった気がします。ソウルもマニアックなものよりポップなものが好きだったんじゃないかな。
思い出した、その番組は、八木さんがDJでアシスタントがデビューしたばかりのアン・ルイスだったんだ。彼女は10代半ばだった気がしますよ。でも、番組の名前が思い出せない(涙)。ほんとにイロンなことが思い出せなくなってる。
八木さんから逸れますけど、昨日、打ち合わせをしていて、作家の重松清さんの名前が出てこなかった。「ほらほら、ビタミンFの彼」だって。失礼しました、ですねえ。重松さんには「小説吉田拓郎・いつも見ていた広島・ダウンタウンズ物語」の解説を書いて頂いたりしてるのにね。
洋楽の評論家の方が少なくなりましたね。そんなことないか。八木さんのことはブラックミュージック系をよく書かれている吉岡正晴さんもご自分のブログでお書きになってました。関西在住の上柴トオルさんが「上柴トオルのポップス最前線」というブログで親密な追悼文を書かれてます。
洋楽離れなのかなあ。と言いつつ自分でも新しい洋楽は聴かなくなってますけど。でも、60年代、70年代の洋楽は身体に染みこんでます。洋楽ファンでもあったんだけどな。俺はいつからこうなってしまったんだろう、って今頃何言ってるんだ、ですよね(笑)。
邦楽の方が書いていて楽しいんですよ。ライブも自分で選んで見られるし、インタビューも比較的ハードルが低い。一緒に変わって行けるというんでしょうか。成長の過程を共有できる。これはもう、リスナーと同じです。コンサートのオーデイエンスと同じ。
言葉の問題は大きいでしょうね。情報も多いし。ということで、こうなってるわけですが。というようなことを書いてると、あの頃、八木さんがしゃべりまくっていた頃の洋楽が恋しくなるのも確かなんですね。細野さんがはっぴいえんどについて言ってました。「趣味は洋楽、コンセプトは日本語」だったって。J-POPの宿命でしょうね。
80年代の終わり頃かな、レコード大賞の審査員でご一緒した時期があったんですね。僕は編集者だの放送作家だのという時期が長かったんで、そういう場所でも彼の方が先輩でしたからね。「あなたは、評論家、というより文化人、という印象だよね」と言ってくれたんですよ。
評論家とは呼べないよ、というシニカルな意味だったのかもしれませんが、なんか嬉しかったのを覚えてます。出来れば、業界の外に出たい、と思ってたんで、そう感じたんでしょうね。そういう意味では彼は最後まで音楽評論家を全うしたんだと思います。合掌、ご冥福を祈ります。
というわけで、全然お会いしてなかったですけど、知り合いがなくなるのは寂しいです。しかも風の便りで聞くのはなおさら切ないです。追悼の曲とかあるかなあ。何の関連もないけど、ロバータ・フラック&ダニー・ハザウエイの「君の友達」を。じゃ、お休みなさい。