と言っても誰も知りませんよね(笑)。そういう人がいたわけですが。その話に行く前に。つかさんがなくなりましたね。62才かあ、という感じです。肺がんですか。ヘビースモーカーなんですよね。お会いしたことがなかったですが、才能のある方だなあと思ってました。
井上ひさしさんもそうですが、なくなっても作品が残ってゆくというのは小説でも音楽でもお芝居でも同じですね。機会があればおさらいしてみようと思ってます。でも、団塊の世代は短命ですねえ。若いころ無茶をしたからかな。合掌です。ご冥福を祈ります。
で、その、ってどの(笑)。二見さんですよ。日曜日にお別れ会がありました。新宿の飲み屋でした。誰よりも新宿を愛し、ゴールデン街とともに生きた人でしたからね。しんみりするわけでもなく、義理で来ている人もいない良い会でした。
どんな人かというとですね、プロデユーサーでした。僕より一世代上、70代前半でなくなりました。60年代は演劇ですね。寺山修司さんの映画「書を捨てよ、街にでよう」にも出てくるのかな。野坂昭如さんのお芝居とか、彼がプロデユースした作品は多いです。
その前は、過激派。当時はそういう言葉はなかったですね。新左翼と言ってました。60年安保闘争の時の早稲田大学のリーダー。まあ、そういうことに挫折して芝居に入ったと言った方が良いでしょうね。
初めて出会ったのは、1970年。僕が「新宿プレイマップ」という新宿のタウン誌の編集をしている時。彼はプロデユーサー兼営業で入ってきました。ただ、僕は、何カ月かしてフリーになってラジオの方に行ってしまったんで、そんなに深い付き合いはありませんでした。
再会したのは、70年代後半。彼が雑誌の編集長をやらないかと誘ってくれて、生まれたのが「タイフーン」という雑誌と「レタス」という雑誌。前者はエロ本屋さんが母体だった新興出版社。男性誌ですね。後者はサンリオが発売元の女性誌でした。
そうやって何年かな。6年間は一緒だったのかな。その雑誌は両方とも6号で休刊になってしまって、編集部は編集プロダクションとして運営していたのですが、最終的にお金の問題で解散してしまいます。僕が誌面の責任者で彼が金銭的なこともやっていました。
芝居のプロデユーサーでしたからね。若手作家やクリエーターなどの才能を見抜く目は確かで、教えられることも多かったわけです。「タイフーン」の創刊号には、村上龍さんや加納典明さんや中上健次さんにも登場して頂いたんですが、彼と二人で依頼に行ったりしました。
「タイフーン」は男性誌でしたから、創刊の時のキャッチコピーは「読むとケガするぜ」。書いたのは糸井重里さん。78年ですよ。「成りあがり」も「TOKIO」も出る前。ギャラは2万円でありました。彼にしようと言ったのも二見さんでしたね。
その2冊の雑誌がなくなって、編集プロダクションを解散して、もう26年かな。僕は今のような仕事だけするようになり、ほとんど会わなくなって、彼は、数年後にヘア・ヌードの仕掛け人プロデユーサーとしてテレビにも出る有名人になりました。数奇な人生をたどった人です。
アル中だったんですね。それも悪びれずに見事なくらい堂々とした。だから書いてしまうんですが。陽気でハチャメチャで、それでいてどっか繊細で知的。その分、金銭感覚もあってないがごとしで。酔うと自分のお金も人のお金もなくなってしまうわけです。
無頼というんでしょうね。当然ながら敵も多かったのに、どこか憎めず愛されてい不思議な人でした。彼と別れた時に、今度会うのはお葬式だろうなと思っていたんですが、いざ、そうなってみると寂しいというか、複雑な悲しみがありました。
そういう人がいなくなりましたよねえ。時代が違うと言えばそれまでなんでしょうけど。つかさんのように有名でもありませんし立派でもない。でも、そんな人がいたんですよ。二見暁(さとる)という人でした。改めて感謝とお別れを。
というわけで、彼が酔うと必ず歌っていた歌を。西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむ時」を。絵にかいたような60年安保挫折派ということになりますね。あーあ、個人的な話を書いてしまいましたねえ。明日読んでみて、削除するかもしれません(笑)。じゃ、おやすみなさい。