何だか寒いです。外は20度を切ってるんじゃないでしょうか。足先が冷えます。「J-POPマガジン」が終わって、仕事場に戻って、原稿かなと思ったんですげ、何となく集中しない。昨日、書けなかったこともあるし。そう、率直なご意見ありがとうございました。
今週のオリコンアルバムチャートの一位だったのが、ヴォーカロイドのコンピレーションだったんですよ。ヴォーカロイドというのは、コンピュターで作り出すヴォーカル。つまり実体の存在しない架空の歌手、ヴァーチャルな歌い手ですね。それが一位だった。
で、ここ何日かで書いていることと話が繋がってるなあと思って、書いているわけですが。問題は二つだと思うんですね。それに対して否定的になるか肯定的になるか。そうやって分けると、きっと音楽の好きな人で肯定的な人は少ないんだと思うんです。
つまり、僕らは、この歌を歌っているのはどういう人かという興味もあって音楽を聞いてますし、その歌っている人の人生や人間性も投影して聞いたりしているわけです。声にその人の生き様が出ていると思って感動したりもします。ヴァーチャルというのは、そういう実体がないわけで、投影のしようがありませんよね。
どっちかと言うと、僕もそうやって音楽も聞いていた方で聞いている方ではありますが、そんな風に明快に断罪しきれない面もあるんですよ。否定しきれない。例えば、コンピュターで自分の好きなキャラクターのヴォーカリストを作れるということは、ひょっとして音楽を作り手に解放するという一つの形かもしれない。
まあ、暴論として聞いてください。かつてフォークソングが、音楽をプロの手から解放したように、それは誰でも作れるということの更に進んだ現象という言い方も出来ます。それが良い悪いということじゃないです。あくまでも客観的な現象としてです。
否定しきれない、ということのもう一つは、ポップミュージックというのはそういう音楽だという面もあるということです。ポップミュージックが"旬”の音楽、だというのは、その時代を様々な形で反映しているからでもあります。まさに”世に連れ”ですよね。
だとしたら、僕らはそういう時代に生きているんだ、と思うしかない。それだけコンピュターが若者の生活に浸透している。お宅文化と揶揄されようと、それが、今の時代なんだとしたら、そういう音楽が流行るのは当然かもしれない。嘆いても始まらない。これは自分に言い聞かせているようなもんでしょうけど。
元々、ポップミュージックというのは消費される音楽という言い方も出来るわけです。レコードやジュークボックスなどのメデイア、ツールの変化とともに変わってきたわけで、その中で、残る音楽と消える音楽が誕生してきた。消費されて消えてしまった音楽と消えなかった音楽があるということでしょう。
過渡期というんでしょうね。あらゆるものがそうであるように、です。i-padの登場で、普遍だと思われていた出版文化が転機を迎えているように、ですよね。変わるものと変わらないもの。形がどうあろうと人の心を打ち続けるもの。音楽もその波のまっただ中にあるということじゃないでしょうか。
それを面白いと思えるかどうか。ジャーナリストは面白がらないとね。好きなものと興味を惹くものとは違いますからね。ヴォーカロイドについて、書いてみようとは思わないし、好きか嫌いかというほどの次元でもない。でも、そういう時代なんだ、という、時には辛い認識も持っていようと思ってます。
マジだなあ。あ、もう原稿書くエネルギーはないわ(笑)。ポップミュージック冬の時代ということになるのかな。でも、多かれ少なかれいつの時代も、そうだったんだと思うようにしてます。僕らの時代だけが特別なんじゃないんだとね。
というわけで、曲ですね。変わりゆくものと変わらないもの。みゆきさんの「世情」かな。沖縄の人たちのシュプレヒコールが聞こえます。じゃ、また。