さっきトミーと散歩していて、ふっと頭に浮かんだのがそんな言葉でした。アリとキリギリス。夏の間、せっせと働いていたアリは、十分な蓄えがあって、安心して寒い冬を迎えられるのに対して、遊んでばっかりいたキリギリスは、寒さに凍えて、夏の間は馬鹿にしていたアリに助けを求めてしまうという童話ですよね。
遊んでばかりいると、将来困りますよ、今は大変でも一生懸命、コツコツと働きなさいという教訓話です。たいてい、挿絵で入っているのは音楽にうつつを抜かしているキリギリスの画だったりします。そういう分け方をするとミュージシャンはもちろんのこと、僕らにしてもキリギリスということになるんでしょうね。
でも、変わってきているんだろうなと思うんですよ。一昨日のことを思い浮かべてそんなことを考えたりしました。アリとキリギリスが二者択一ではなくなっている。あれかこれか、ではないという時代、あるいは、人々の生き方と言えば良いんでしょうか。
そういう意味で言えば、「つま恋」の会場にいた3万5千人の人たちの多くが、”アリ的”な生活を送ってこられた方だと思います。でも、音楽は捨てない。せっせと働いた蓄えも、単に冬場の備えに回すのではなくて、キリギリス的な楽しみのために使う。そういう新種のアリなんではないかと思った次第です。
キリギリスの方にも新種がいるんですよ。お酒も飲まずに、せっせと貯金したり、食事はファミレスで済ませるという質素なキリギリス。貯金はどうだか分かりませんが、拓郎さんも「つま恋」の数日前からはアルコールは断っていたみたいですし。単なる歓楽一辺倒のキリギリスではやれなくなっているということでしょう。ミックジャガーもアリのようなキリギリスでしょうしね。立派なキリギリスでいるためにアリになるという二面性です。
そう言えば以前、矢沢さんが出た「アリよさらば」というドラマがありましたね。あの頃は、まだその二つは二者択一だったのかもしれません。鎖を引きちぎれ、的な意味でのアリとの決別ですよね。それが団塊の世代なのかもしれませんね。退職金を、趣味に使うというのはそんな例じゃないでしょうか。昔、新人類という言葉がありましたけどね。キリギリス的なアリ、というのが新中年なのかなと思ったりしました。
感慨にふける間もなく、でアリます。新聞の原稿を3本書きました。良い気分転換となったのかもしれません。「つま恋」のことじゃないんですけどね。「つま恋」の原稿もこれからもちろんあります。来週発売の「週刊朝日」の原稿がその第一弾になるのかな。水曜日に書きますけど。
でも、何かの拍子にふっと思いだしてこみ上げそうになります。あの客席の光景。時間の経過とともに変わって行く空の色や夕焼け。ステージの拓郎さんの表情や歌。どの場面というより、あの空気自体に引き込まれる瞬間があるんですよ。ひょっとして、そういうじんわり感はこれからもっと強くなって行くのかなと思ったりします。
こういう充足感というのもあるんでしょうね。時間が経つにつれて逆に色濃くなってくる。今年は、apbankフェスでも、氷室・GLAYのコラボでも、それぞれにニュアンスの違う、感慨や充足感を味わうことが出来ました。いい年だったということなんでしょうね、と、何だか大晦日の行く年来る年みたいですけど(笑)。でも、今年は終わりかな(笑)。
一週間分の片付けもありますし。明日はそれかな。ということで、今日最後の曲です。かぐや姫で一番染みた曲です。「お前が大きくなった時」。こうせつさんはキリギリスだろうなあ。アリのような農耕生活をする新種のキリギリスでしょうか(笑)。じゃ、お休みなさい。