これじゃ毎日タイトルが同じということになりますね。毎日が「一日の終わりに」であることには変わりがないわけですから、このタイトルは今日でおしまいです。
新聞の原稿を三本書きました。まあ、新聞ですから一つの原稿が短いんでそれだけ書けるんでしょうけど、考えること自体は、長さによってさほど違いはないんで、それなりにグッタリはします。でも、昨日ほどの満たされた感じはないですね。
来週が使えなくなりそうなんで、来週分も書いているわけですが、それでも手が回らない部分も出てきていて、皆様にご迷惑をおかけしてます。
昨日の続きを書こうかな。カウボーイさんのコメントに思うところがありました。何かというと、”評論家”ということに関してです。”冷たい静かな視線”だったかな、つまり、評論家的、ということは、私情を排して、冷徹に分析なり論評を加える、ということなんだろうなと思いました。
確かにそういう人が多いです。そして、物事に対して批判的な精神が評論家的精神という人もいます。今日は、そんなことについて考えて見ましょうか、評論家的に(笑)。
一つの物事に対しての物の見方は三つあると思うんですよ。それは賛成・反対・中立、ということになります。議論の基本ですね。これを法廷に置き換えると、判事・検事・弁護士、ということになります。中立が判事、反対・賛成が検事と弁護士にそれぞれ分かれます。
音楽ということで言っても、その三つは共通するわけです。つまり、この音楽が”良いか悪いか”のジャッジをする裁判官的立場。”良くないだろう”と告発する検事的な見方。そして、”ここが良い”という弁護士的な意見です。
それぞれが評論なんだと思いますよ。どれが良いかと言うことでもないんでしょう。で、自分のことを言えば、そういう分け方をした時に、僕は三番目でありたいと思うんです。昨日の続きで言えば、”好きになれる音楽”に関わっていたい、ということになります。中には、”これは良くない”という辛口をスタイルにしている人もいますが、折角音楽なんだから、そんなにしかめっ面をしていてもつまらないという気がします。自分が嫌いだったら、触れなければ良いんですから。
政治は違いますよ。権力を持っている人の横暴や暴走をチェックするのがジャーナリズムの役割ですし、それを果敢に指摘するのが評論家でしょう。でも、音楽は違います。政治的な過ちで人を不幸にしたりすることも少なくないですが、音楽で死ぬ人はいないでしょうし、人を幸せにするものですから。”告発”的な物の見方は、似合わない、というのが僕の考え方です。
マジになってるなあ。でも、ここはちゃんとしないと、アーテイストに対しても失礼だろうなと思うんですよ。音楽を作っている人はもっと自分に責任を負って創作をしているんでしょうからね。そこに向き合う僕らも、それなりの責任は生じてくると思ってます。彼らがそうやって作り出した作品を語るわけですからね。”語りたくなる音楽”に出会えたら幸せでしょう。
好きな音楽に対して、ファンも評論家もないんだと思いますよ。僕らはたまたま、こういう業界の中にいるから、接する機会も多いし語る材料も多い。それを言葉にするから、”評論家””ライター”という職業名がつくだけで、根底にあるのは、同じじゃないでしょうか。というより、同じであることを見失いたくないと思ってます。
どうかなあ。白けられたかも知れませんね。でも、今日は読み直してますよ(笑)。
まだ、雨降ってますかね。もし、降っていたら、フッフッフ。今日の散歩はなしです。