4月25日ですね。ニュースは福知山線事故一周年を伝えてました。朝の通勤ラッシュで突然の事故。痛ましいとしか言いようがありません。生きて行くのは大変なことです。
それとは別に、この日になると思い出すのは尾崎君のことです。92年4月25日でした。忘れもしません。午後2時くらいだったでしょうか。永井真理子の事務所で聞いたんですよ。「尾崎が泥酔して保護されたらしい」という報せが入って、取材が終わった時には「死んだらしい」となってました。
あの日は酔いましたね。誰かの武道館のライブに行ったものの、気が滅入って、「パチパチ」の編集部に電話をして、残っていた編集長と勝手にお通夜をやったんですよ。べろべろでした。やりきれなかったんですね。何でそうなってしまうんだ、というどうにもならない気分で一杯でした。
尾崎君の思いでは色々ありました。最初に見る予定だったのは日比谷のアトミックカフェというライブだったんですが、僕の方の家庭の事情で、会場の前で引き返してしまって見れなかったんですよ。翌日に予定されていた、吉川晃司・小山卓治・尾崎豊という3人のライブを見に行ったら、前日のライブでPAから飛び降りて骨折した、ということで欠席。代わりに「尾崎君からのメッセージです」と鳩が100羽放たれました。上空を舞う鳩を見ながら「今時こんな奴がいるんだ」と思った記憶があります。
日本青年館の身を削るようなステージを見た時「コイツ、死ぬな」と直感的にそう思ったのは事実です。これは他にも書きましたが、85年の大阪球場のライブの打ち上げで、成功に酔う関係者の間で「ミュージシャンはどのくらい歌えば幸せになるでしょうか」と言って頭から手に持っていたビールをかけたシーンはまだ焼き付いています。ニューヨークでも一緒だったことがあるんですよ。僕の40回目の誕生日は取材で行っていたニューヨークで、その前後数日には、みゆきさんと甲斐バンドと中村あゆみと尾崎豊がいました。でも、もう20年前です。
一つ言えるのは、あの時彼が登場していなかったら、きっと、今僕はこんな風に音楽の周辺にはいなかっただろうなということです。85年、拓郎さんが二回目の「つま恋」を終え、浜田省吾も、甲斐バンドもメジャーになってしまい、音楽に関わっていてもしょうがないかなと思っていた矢先に現れたのが尾崎でした。
天才だったなあ、とか、どうしようもない奴だったんだなあとか、勝手に思い出したりしてます。生きていれば40才ですか...。4月30日の葬儀は雨でしたね。何だか書きすぎた気もします。改めて、合掌です。