すごいタイトルでしょう(笑)。死語だよね。いや、どうなんだろうね、返って新鮮に思われるかな、わけないか(笑)。昔、そういう連載を毎週、書いてたんですよ。「デイリースポーツ」という新聞。1976年から77年にかけてだった、ということを今日、改めて知りました。
久しぶりに二人の友人に会ったんですよ。一人は、同学年、一人は、二世代くらい下。片や元編集者で今、会社経営。少し引退気味の文化人Aさん、もう一人は、元編集者でライター、今は、ハワイの人気コーヒーショップ”アイランド・ビンテージ・コーヒー”の日本の営業責任者、Kさん。それぞれ別の場所での知り合いだったんですが、彼らもひょんなところで同じ会社にいたことがあるという関係。二人とも久々でありました。
で、「フォーク最前線」ですよ。Kさんは、編集者だった時もあって、その時に、僕のそれまでに書いた原稿をまとめたいと言ってくれたんですね。GLAYのことを書いた「夢の地平」が出た時だ。ただ、出してくれると言っていた出版社の社長さんが替わってしまって、企画が流れてしまったんですね。彼には満足なお礼も出来ないまま、その話は終わってしまいました。
僕は、まさかこんなに長くこの仕事をしてるなんて思ってませんでしたから、70年代に自分の書いた原稿なんて全く残ってないんです。ましてや購読してるわけでもない新聞ですからね。書いたことは覚えていても、記事はない。彼が国会図書館に行ってコピーをしてくれてたわけです。
でも、企画が流れてしまって、そのままになっていたものを、今日、持ってきてくれたんですよ。76年から77年にかけてのフォーク・ニューミュージックの最新動向という60行くらいの記事。仕事場に置いてきてしまってるんですが、浜田さんのことを書いたものとかありました。
”フォーク最前線”というタイトルは、編集部がつけたと思いますね。もう、そういう時代じゃなかったですからね。タイトルと記事の多少のせめぎ合いみたいなものもあった気がします。そういう、自分でも忘れてる記事とか一杯あるだろうなあ。今回、サザンの「葡萄」を色々特集する中で、桑田さんに初めて会ったのはいつだったか思い出してました。
サザンがデビューしてすぐ、東京タワーでダディ・竹千代と東京おとぼけキャッツと対バンをやった時に「平凡パンチ」で取材したのが最初だったと思います。でも、何を書いたか覚えてない。マーチン、鈴木雅之さんと初めて会ったのも、79年に浅草の国際劇場で大晦日にやっていた「ニューイヤー・ロック・フェス」だった。
裕也さんがプロデユースしていたライブね。その取材も「平凡パンチ」だったはずですからね。どんな記事を書いたんでしょうね。まあ、今読むと恥ずかしくて駄目かもしれないんで、そのままにしておくのが良いんでしょうけどね。というようなことを考えてました。過去は過去、振り向いてはいけない。
お天気、まだ妙です。冬物のコートが手放せません。ということで、曲ですね。ブレッド&バター、「あの頃のまま」を。じゃ、お休みなさい。