陽水さんの曲名ですが、本題はこの曲ではありません、じゃ、なんでだ。”なーんでだ”という漫談の人がいなかったでしたっけ、って関係ないか(笑)。”上海”話が続いたんですね。今日、GLAYのインタビューがありました。「J-POP TALKIN’」の7月前半に週分です。
いつもは一組のアーテイストのインタビューを二週に分けて放送してるんですが、今回は、1週目をTERUさんとJIROさん、2週目をTAKUROさんとHISASHIさんという振り分け。7月9日に発売になる20周年、50枚目のシングル「BLEEZE~G4Ⅲ」についてでした。
「G4」というのは、GLAYが2006年、2011年と「G4」「G4Ⅱ」と発売してきた4曲入りですね。最初は、全曲TAKUROさんの曲だったんですが、「Ⅱ」からメンバーそれぞれが書くようになってます。4人4様というバンドの個性が明確に見えるというスタイルであります。
で、「外灘SAPPHIRE」というTAKUROさんが書いた曲があったんですよ。外灘。上海のバンドと呼ばれる一角のことですね。戦争中は”租界”と呼ばれる外人居留区があった。当時、アジアでは最も自由なエリアと言われていた一角ですね。
戦時中ですからね、日本の国内は、ジャズが禁止されていた。アメリカの音楽は敵国音楽だったわけですよ。国内のジャズミュージシャンは、仕事もないし軍歌を演奏するのは嫌だと上海に渡ったんですね。そういうミュージシャンを描いたのが「上海バンスキン」というミュージカルでした。
バンスキング。前借りの王様。ギャラを前借りして上海に逃げたミュージシャンですね。彼らが演奏していたジャズクラブは7年前まではありましたよ。和平飯店というクラシカルな素敵なホテルがあって、その地下でしたけどね。まだあるのかなあ。上海万博で取り壊されたんじゃないかな。
「外灘SAPPHIRE」は、そんなことを思わせるようなどこか無国籍なロックだったんですよ。更にこの話にはもう一つエピソードがあって、日曜日の「MIND OF MUSIC」が平原綾香さんの特集だったんですね。彼女のお祖父様は、戦前からのジャズトランペッターだったんですが、南里文雄とホット・ペパーズの一員だったことがあるというんですね。
南里文雄さんは、やはり戦時中、上海にいたことがあって、「上海バンスキン」のモデルの1人と言われてるんだそうです。平原さんの家系にはそういうミュージシャンシップみたいなものが流れてるんでしょうね、という話をしたばっかりでったんですよ。
ま、偶然でしょうけど(笑)。でも、そうやって日本を脱出したジャズミュージシャンの中に、日本のポップスの父、服部良一さんもいたんですよ、というようなことを思い出した次第です。なぜか、じゃなくてちゃんと理由がありました(笑)。
GLAYと上海。何だかミステリアスな雰囲気がしませんか、しないか。僕にはするんだ(笑)。というわけで、その曲を。GLAYで「外灘SAPPHIRE」を。今日は寒いです。明日は暑くなるんだそうです。明日は、WOWOWの氷室さん特番のお手伝い、じゃ、お休みなさい。