長い週末でした。長い長い土日でした。色んなことのあった二日間でした。両日とも横浜スタジアムのWateraidに行ったんですが、ともに僕にとっては早起きの日ですからね。おまけに横浜は遠いわけですよ。昨日は朝6時半に出て、帰ったのは夜中の2時半でした。
何時間だ。指を折らないと計算出来ない。というか、指を折っても数えられない(笑)。夜中の2時半ということは、26時半だ。ということは20時間か。20時間労働、じゃないな。勤務、も違うね。ま、いいや。その間に打ち合わせや原稿もあったりしてですから、濃かったです。
Wateraidは、今年が第一回ですから、イベント自体が知られてないということもあるんでしょう。こうすればいいのになということはいっぱいありました。でも、一日目、矢沢さん、二日目、氷室さんというラインアップは一回目にふさわしいでしょうし、見ごたえがありましたよ。
それぞれの持ち味やロック、パフォーマンスのスタイル。歴史がつながったという感慨もありました。二人とも自分の役割を十二分に認識しているようでしたし、まあ、かっこよかったです。これが何かの始まりになるのか、二度と、見ることのできない二日間になるのか、それはわかりませんけど。
これで夏は完全に終わりですね。昨日も昼間は半袖で済みましたけど、夜はジャンパーが必要でした。ジャンパーとは言わないのかな、今は。ブルゾンとか。コラ・ソン・デ・ブルゾンン。違うね。コラ・ソン・デ・メロン。「メロンの気持ち」という歌が昔ありました。知らないよね。60年代だもん。
何の話をしようとしたんだっけ(笑)。そう、昨日か、違う、金曜日か。自分の書いたものを読んでいて、ふっと思ったわけです。「じゃ、70年代の風」って何だったんだって。”僕らが吹かれていた70年代の風”って何だよ、って自分で突っ込みを入れてしまいました。格好良さ気なこと書いてんじゃねえよ、って感じかな。
「時代の風」というのは毎日新聞の日曜日(だったかな)のコラムの題名ですけどね。あの欄で瀬戸内寂聴さんと寺島実郎さんの書くものが好きだったんですが、瀬戸内さんは最近書いてないね。寺島さんは、三菱総研の人だったのかな。今は、鳩山さんのブレーンなんですね。びっくりしました。話がそれたね。
そう、何となくはあるんですけどね。「70年代の風」。五木寛之さんの小説にあった「デラシネ」という感じは、そうかな。根無し草ね。自分の場所を持てない漂泊感というのかな。思い出しますね。甲斐バンドが「漂泊者(アウトロー)」という曲を出した時、”漂流と漂泊”の違いという話をしたな。
”漂流”は、具体的に場所を流れ移ってゆくことで、”漂泊”は、精神的な意味だ、という話をしていたのは当時甲斐バンドのマネージャーだった剛さんでした。70年代というのは、両方あったのかな。現実に日本を捨ててしまった人たちも多かったですしね。
みゆきさんの「永遠の嘘をついてくれ」は、70年代ぽいな。”この国を見限ってやるのは俺の方だ”という感じは、漂流と漂泊の両方でしょうね。意識的漂泊。つまり、だ。どこにも属せない、自分の居場所いがない、所在ないままで漂っているという感じでしょうか。
「風とフォーク」は、収録されている曲に、地味だけどそういう所在ないはかなさが漂っている曲ばかりだったんですね。有名な曲じゃないから返って感じたのかもしれない。でもねえ、今の若者がそういう気分だとしたら、これでいいのかなあという感じもありますよ。長くなりそうですね、こういう話は(笑)。
たまにはこんなことを考えるのもいいか、と妙にまとめてしまう大人でありましたね(笑)。というわけで曲だ。何だろうねえ。風の歌かなあ。色んな人が歌ってますよねえ。風を歌ってない人の方が少ないかもしれない。
もう一曲「風とフォーク」の中から。西岡たかしさん、木田高介さん、斎藤哲夫さんの3人。溶けだしたガラス箱(字が難しくて出てこない)の「さっき君が」。このはかないひっそり感、どうなの。じゃ、おやすみなさい。